「聖なる苔」
作者  J

2006-11-25

 

 

 





「ワタシタチハアウワ……」

霧に包まれたような世界で凜とした声が柔らかに耳を突き抜ける。
どこか懐かしいような、寂し気な、切ない、甘い少女の声……。
実態を掴まえようと手を伸ばすとにわかに消えてしまう、儚い夢。
「あう」とは気が合うということなのか、出会うということなのか、
書き言葉ではすぐに理解できるものでも、話し言葉では判断が難しい。

……もう一度あの頃に戻ってすべてやりなおしたい。
とはいえ、一体何をやりなおすのだ。我ながら呆れる。
こうして冷静さを取り戻す頃には、決まって夢から醒める。
しかし、今回は夢が醒めない。むしろ、醒められないのだ。

ここ一年間で頻繁にこの夢を見た。……と夢の中で朦朧に思った。
今回は意識さながらその夢の続きの映像を見ているようだ。
半分以上意識はあるのにも関わらず目が覚めない。起きられない。
私は夢の中で不思議な感覚を体感する。
……これは、なんと懐かしいシーンなのだろう。
何故ならこれは、トモエとの出会いを忠実に再現した映像だからだ。


二年前の冬、ガルデローベの入学試験日のことである。
今年は新聞に「五年ぶりの極寒」と書かれていた程、寒い冬だった。
私は車から降りると御守りを握りしめて学園の校舎を見上げた。
ガルデローベ学園は雪に包まれて白いお城のようで幻想的だった。
遠近法を強めた絵画のような校舎は威圧的にも感じられ、私は少し怖じ気づく。
それでも私はその時初めて「この学園に通いたい」と心から思えたのだった。

入学試験は難しいとはいえ、一浪して勉学に励んだので自信はあった。
私は元々悲観的だったので、気力だけでも一定に保っておこうと考えていた。
冬の寒さが身を引き締め、雪景色の美しさが私にやる気を引き出す。
雪は積もっていたけれど、通路は受験生のために綺麗に雪掻きされていた。
大雪といえど歩行には特に困らなかった。
しかし、通路とは異なる積もった大雪の中を歩く少女がいた。
この少女も受験生なのだろうか?
歩きにくい深雪の中を通ることに何か意味があるのだろうか?
私は何故かその少女に強い好奇心を抱き、彼女の歩いた道を辿った。
……その少女こそが、トモエだった。

私は探偵になったようでわくわくした。
子供の頃に推理小説を読んで探偵になる空想をして楽しんだ経験はあったけど、
実際に誰かを追跡したり、謎を追究してみようと思ったのは初めてのことだった。
これまで誰かに対して強い関心や好奇心を持つことなど、
私にはあまりなかったから、自分でも不思議だった。が、どうしても気になった。

後ろから観察したトモエは、左右非相称の風変わりな髪型をしていた。
モスグリーンの丈の短いコートを身に纏い、カーキ色のズボンは、
腰回りはゆったりさせ、膝から下を細くするデザインで乗馬服のようだった。
トモエはそのコーディネートに焦げ茶色のごついブーツを履いていた。
趣味で乗馬をするのなら、かなり金持ちのお嬢様だと私は分析した。
でも、あのおかしな髪型からして、少し変わった人なだけなのかもしれない。
それによく考えてみれば、十四五歳であの服装のセンスは普通ではない。
凄くセンスが悪いのか、逆に凄くセンスが良いのか、恐らくどちらかだろう。
それに歩き方も上品なのか下品なのか際どく、お嬢様なのかどうかも怪しい。
洗練された優雅さを嫌い、それに抗おうとしているのか、
歩き方は猛々しく、でも軽やかで、独特の歩調が特徴的だった。
でもきっと彼女は、他人の前ではおしとやかにしているのだろう。
その証拠に今この校舎の周りには私たち以外に誰もいない。
余裕を持って早めに到着したから、まだ人の姿は見当たらなかったのだ。

試験当日に馬鹿なことをしてる自分に呆れつつも奇妙な昂奮があった。
顔も見えない人間を後ろ姿だけで分析するのも試験前の脳の刺戟になる、
と自分に言い聞かせて、私は目の前にいる風変わりな少女を尾行したのだった。

朝日が茫漠たる敷地内に広がる雪に反射して目が眩んだ。
視野が麻痺してきたのか、目の前にいるトモエが大きな苔に見えた。
緑色のしなやかな髪とモスグリーンのコートが、動く大きな苔のようだった。
その大きな苔は朝日を吸収し、苔の陰湿さと平衡をとろうと励んでるようだった。
それは、対立する世界と融和しようと試みる誠実さがあり、感動的だった。

誇らしげに雪を踏みつけ歩むトモエの姿は実に凛々しく神秘的であった。
踏みつけられた雪はトモエの熱と圧力でじんわりと従順に溶けてゆく。
それでも雪は負けじ魂で冷たく輝き、その輝きはトモエを鮮麗に照らす。
踏む者と踏まれる者の寸分たがわぬ拮抗は、愛欲の秩序に正しく従っていた。
このようなトモエの刺激的な姿は、私の官能を強くそそったのだった。

わざわざトモエが歩きにくい深雪を歩く理由を私はその時直感した。
これは彼女の愛欲の秩序に従った神聖なる儀式の一つなのだ。
誰にも触れられていない、誰にも踏まれていない雪を踏むという……。
私は、この美しい聖なる苔に敬意すら覚えた。

美というものを知らなかった私に、美への橋を渡してくれたトモエ。
これまで美とは自分とは遠くかけ離れた世界で展開するものだと思っていた。
美とは、特に美しくもない自分を無言で拒んでいる嫌悪すべき異物だった。

こういう人こそが将来オトメになると、私はこの時確信を持ったのだった。


試験は終わった。
十全に過去問対策をしていたとはいえ、試験問題は思った以上に難しかった。
終わってしまったものを悔やんでも仕方がない。
それよりも試験勉強から解放された爽快感の方が勝っていた。
私は身支度をして試験会場を出た。
昼過ぎになると日が照ってきて早朝よりは大分暖かかった。
天気も良かったので気分を良くした私は一人でトモエの歩いた道に向かった。

トモエのことが気になった。
もう一度あの雪の中を歩けばトモエに会えるかもしれない。
顔が見たかった。できれば少し話もしてみたかった。
試験に落ちたらもうここに来ることは二度とない。
となると、トモエに会うチャンスは一生ないだろう。
そう思うと余計に焦燥感が生じる。
どうしても行かなければならない予感がした。

私は朝来た道、通路ではない雪の中を心の赴くままに歩いた。
雪の中をスカートで歩くなんてことは普段は絶対にしない。
溶けた雪の水分を吸収したスカートが重く、脚が冷えて寒い。
トモエは現れなかった。
何を馬鹿なことをしてるのだろうかと呆れる。
かくして途方に暮れていた瞬間、緑色に発光するトモエの姿が見えた。

私は思わずトモエを凝視する。
彼女は振り返り、数秒間目が合った。私は気まずくて目をそらした。
今朝の尾行がばれたのではないかと不安になったからだ。
私はそのまま通路側に踵を返し、トモエから早足で逃げようとした。
トモエは私を追いかけてきた。やっぱり変な女だと思った。
焦ったせいで足がもつれて転び、私は雪の中へどさりと埋もれた。
諦めた私は冷たく柔らかな雪の中で、もうどうにでもなれ……と思った。

トモエはすぐに駆け寄ってきた。
雪の中で倒れたままの私にトモエは唐突に話しかけてきた。
「こんなところを歩く人なんて、私たち以外にいないわね」
トモエは共犯者を見つけて喜んでいるような口調だった。
「えっ……あっ、うん」
私は間抜けな体勢のまま頷くだけで精一杯だった。
緊張してうまく喋られなかったが、話しかけてもらえて嬉しかった。
トモエは転んだ私を起こそうと手をさしのべた。
私はしっかりとトモエの手を掴み立ち上がった。

超然とした雰囲気を放つトモエはとても魅力的だった。
少し個性的だが整った美しい顔をしており好感度は増した。
トモエは私を数秒間じっと見つめて何か考え込んでいた。
何を考えているのかは分からなかったが、私の何かを知りたそうな目をしていた。
トモエが知りたいのは私自身なのか、トモエに興味を持った私なのか、
或いはその両方なのか、永久に分からない。が、悪い気はしなかった。
何か会話が盛り上がるかと思ったが、二人とも暫く無言だった。
「ごめんなさい、緊張してうまく喋られなくて」
少し困ったような顔をしながらトモエが口火を切った。
トモエでも緊張したりするんだと、少し彼女に対して親近感が沸く。
「お互い試験に合格すると良いですね」
緊張感を隠そうと私は曖昧に笑い、でも口調だけは少し畏まって言った。
「ええ。絶対受かりたいわね」
トモエはにっこりと笑って言った。意志の強そうな目をしていた。
私はその言葉に素直に頷いた。

二人とも合格して入学できたら同じクラスになって友達になりたい。
そう考えた私は名を名乗ろうとしたが、トモエに遮られてしまった。
そんなトモエの態度に私は傷ついた。
自分は試験に合格するつもりでいるけど、私みたいな小市民なんかが、
高尚なガルデローベに受かるわけがないと見くびっているように思えた。
だから二度と会うことのない人の名前になんて興味がないのも当然だろう。
受かりたいとか言っていたけど、結局この人は自分さえ受かれば良い、
そう思っているに違いない。そもそも受験なんてそんなものではないか。
一方的にトモエを友情を感じて、はしゃいでいた愚かな自分を恥じた。
私は急に悲しくなってその場から消えたくなった。

このような私の心理が表情に出ていたのだろう。
トモエは薄く微笑を浮かべて、なだめるように私に言った。
「私たちはきっと会うわ」
真っ直ぐに私を見つめ、強い口調で言い切ったトモエは大人びて見えた。
その言葉に驚いた私は「えっ」と声をあげることしかできなかった。
私は相変わらずうまく喋られない上に、目をそらしてしまう。
なんて情けないのだろう。もう少しトモエと釣り合う人間になりたい。
そんなことを考えていると、トモエは私の手を握りしめてもう一度言った。
「私たちはきっと合うわ」
同じ台詞だったけど、微かにニュアンスが違ったように感じられた。
しかしその時はそんなことを考える余裕はなかった。
手を握られるという突飛な行動に私はあわてふためいていたからだ。
私は大きく「うん」と頷いて笑顔を見せた。


 

 



ミーヤは夢から覚めると、ゆっくりと目を開いた。
……また、この夢か……。
目尻に溜まった涙を手で擦る。
嫌な女の夢だと言うのにどうしてこんなに切なくなるのだろうか。

ミーヤは暖炉の傍の椅子に腰を掛けながらうたた寝していた。
椅子に腰を掛けて読書をしていたところ、眠ってしまったのだ。
今朝は早く起きて掃除をしたり部屋を片付けていた。
それで少し疲れたようで、休憩しながらうとうとと眠ってしまった。
時計を見ると午後一時。慌てて椅子から立ち上がり、窓辺に向かう。
曇った窓を手で擦り窓外を見やると美しい雪景色だった。
遠くにある巨樹に積もった雪が日光で反射して眩しい。
毎年この時期になるとルーテシア・レムスでは大雪が降る。
ミーヤは大雪を見て夢の中で再現された入学試験の日を思い出す。
そして、忘れたくても忘れられないトモエのことが嫌でも連想される。
「この大雪じゃ買い物も無理か……」
と呟き、買い物はもう少し雪が止んでからにしようと考えた。

昨晩クロシェット家に叔父が来訪し、二日間泊まることになった。
その折りに「パンプキンパイが食べたい」と叔父は言っていたので、
ミーヤが作ることになった。これも花嫁修業の一貫なのだ。
今夜は叔父だけでなく何人か親戚が来訪するので夕食は賑わうだろう。


十六歳になったばかりのミーヤは、近々結婚する予定だ。
相手は叔父の知人の息子である八歳年上の青年だった。
ミーヤはガルデローベに入学する以前からその青年と面識はあった。
当時は彼のことを嫌いではなかったものの好きにはなれなかった。
本当にこの人と結婚しても良いものなのだろうか、という不安があった。
しかし家のこともあり、決定的な理由がない限り断るのは不可能だった。
「そのうち男という生き物に慣れるものだ」
とミーヤは次第に考えるようになった。
ガルデローベを退学してから青年と会う頻度が高まった。
昔は婚約者の青年が苦手だった。物騒で冷淡で会う度に早く帰りたくなった。
しかし矛盾したことに恐怖感と相反する安心感も後に得られるようになった。

ミーヤにとって自分とは異なる性を持った男という異物は神秘的だった。
ミーヤがそのように思っていたのと同様に青年の方もそのように思っていた。
青年も最初はミーヤのことなど特に好きではなく、他に好きな女性がいたようだ。
互いにそっぽを見ていた二人も会う毎に次第に惹かれ合い、恋愛感情が生まれた。
青年は粗雑な野心家で、しっかりしていたから、端から見ると恰好良かった。
しかし外観とは異なり、内面は傷つきやすい少年の心を持った人だった。


今から約半年前、こんな出来事があった。
ミーヤがガルデローベを退学して半年後のことである。
その日ミーヤは青年と会った。
映画を見て、買い物をして、食事をするという典型的なデートだった。
ミーヤがガルデローベを退学してからは殆ど毎週青年と会うようになった。
その日青年は何かを言いたそうで焦って緊張しているような雰囲気だった。
視線を合わせずに突然黙ったり、繋いだ手が僅かに汗ばんでいたり、
そんな風になられるとミーヤの方も意識しないわけにはいかなくなる。
ミーヤも青年も不器用であった。しばらく公園の広場を散歩した。
空は黄昏となり、敷地内の樹木、落ち葉、紅葉と調和する色を放っていた。
「少し休まないか」
とうとう青年の方から話の口火を切った。
「……うん」
ミーヤは僅かに恥じらいながら、こくりと頷く。
それからしばらく二人は会話をした。
今まで言い出せずに隠していた青年の心の闇。
具体的には、家のこと、好きだった女性に捨てられたこと、など。
長年好きだった女性がいたけど片想いだったという話を青年から聞いて、
ミーヤにはそれがどうしても他人事には思えなかったのだ。
思わず自分も女友達に捨てられたと告白しそうになったが、
変に思われるのではないかと危惧し、今は隠しておこうと考えた。

ミーヤはトモエのことを思い出し、自らの影を青年に重ねた。
夕闇が青年の明瞭な横顔の輪郭を切なげにぼかし、悲愁を漂わせる。
ミーヤは青年に母性のような優しさが生まれ、そっと抱きしめた。
自分より大きな体躯をした、自分よりか弱い生き物を守りたいと。
それに答えるように青年もミーヤを抱きしめた。
「……ありがとう」
青年の声は震えていたがひどく優しかった。
夕靄が二人を優しく包み込み、二人は唇を重ねた。

これを機に二人は愛し合うようになった。
それはミーヤにとって、かつて味わったことのない幸福だった。
ガルデローベでの痛ましい事件を忘れられる程の至福の時間だった。

……男と愛し合うことは、トモエへのささやかな復讐でもあった。


 

 



ミーヤは雪が止むまで気分を紛らわそうと思った。
だが、何をしてもうまくいかなかった。
頭の中は忘れていたはずのトモエで一杯になり、怒りがこみ上げてきた。

……。

「平凡な人生だと彼女は笑うかもしれないが、私は幸せを手に入れた。
寒い日に暖炉の傍でのんびりと編み物や読書をする幸せ、
家族のためにパイを作る幸せ、愛する男との結婚という幸せ……。
トモエは平凡さを軽蔑しているような人間だった。
確かに私は野心家ではないから、叶えたい夢など特に持たなかった。
通常、私たちくらいの年齢の女の子なんてそんなものである。
クラスメイトとファッションやアイドルや男の子の話をしたり、
そういうささやかな日々の生活を楽しんで生きているだけなのだから。
夢や目的のないことは、何か大きな問題なのだろうか。
少なくとも私は問題と思わなかったし、周りの友達もそうだった。
夢や目的なんて生きていく中で見つけられれば良いと思っていた。
今もそう思っている。だから、結論としては、それで良かったのだ。

娘がガルデローベ卒の学歴を所持していることは親として誇らしい、
ということくらいは幼い頃の私にも分かっていたので試験を受けた。
一年目は勉強不足だったこともあり、試験には落ちた。
親は家庭教師を付けて、一年間みっちりと勉強に励んだ。
しかし、将来のことを考えて勉強をしていたわけではなかった。
そんな私の姿は、目的を持った人間からはつまらなく映っただろう。

それでも私は必死だった。人間関係、友達を作ること、
毎日の授業に付いていくこと、学園生活のリズム……。
そんな私の苦しみなんてトモエには理解できないだろう。
だから私をゴミ同然に捨て去ることができるんだ!
……でも、ひょっとすると彼女は私に救いを求めていたのかもしれない。
恐らくその直感は正しい。……じゃあ、何故、私なんかに?
それはきっと、彼女が私の本質と恋心を見抜いたからであろう。

私はトモエに恋をしていた。
恋だと気づいたのは、皮肉なことに彼を愛してからだった。
それまでは利用されて捨てられた憎しみに意識が向いていたので、
どうしてもトモエのことは冷静には考えられなかった。
時間が経過し、落ち着いたからこそ気づくことも多い。
私はトモエのことはちゃん付けで呼んでいた。
たとえ同い年でも現実では対等にはなれないと卑屈になっていたから、
自然に呼び捨てで呼ぶことは、当時の私にはどうしてもできなかった。
頭の中で彼女に話しかける時は決まっていつも呼び捨てだった。
日記を書く時も呼び捨てで書いていた。これも一種の復讐なのだろうか。」

……。

ミーヤはにわかに引き出しを開け、封筒の束を取り出した。
その束は十二通の未開封の手紙である。
退学した翌月から必ず届く月に一度のトモエからの書簡……。
微妙な色彩が美しい、質の良い繊細な紙でできた封筒に、
やや癖のある字が上品に綴ってある書き様も彼女らしい。
憎らしいのに懐かしくて胸が詰まる、そんな手紙だ。
ミーヤはこれを一度も開封したことがない。
それは復讐行為でもあったが、単に読む勇気がないからであった。

読んでもいないのに、トモエの手紙の魔力は恐ろしいものだった。
毎月手紙を見る度にミーヤはトモエの夢を見、平穏な日常が瓦解される。
この手紙を見るとトモエのねっとりと絡みつくような声と視線が、
ありありと再生され、たまらなく不愉快になり、二三日後遺症が残る。
折角新たな人生を歩み始め、夢と希望を見出せたというのに、
それを妨害されているようで不快だった。現在の幸せは失いたくない。
しかし、これは妨害というよりもむしろ支配なのかもしれない……。

トモエの支配欲の強さは尋常ではなかった。
支配されることで喜びを得られるような性癖を持つ人間でない限り、
トモエと付き合うことは不可能だ。それは付き合いの中で気づいた。
そんな人間は少ない。そして、その手のタイプの人を見つけたとはいえ、
あのトモエのことだから、飽きたらさっさと見切りをつけるだろう……?

トモエは強い自尊心を内に秘めた人間である。
美しく、自信もあるから、女として魅力的に映る。
よって、求愛者も少なくない。だが、今頃彼女は独りぼっちだろう。
そして、今後も孤独な人生を歩むに違いない……。
何故なら、トモエに求愛できるような人間は、
(社会的あるいは一般的に見て、そこそこ優れた人間であったとしても)
自惚れた自信家に違いない。潔癖で自尊心の強い彼女にとって、
自惚れは嫌悪以外の何ものでもない。そんな人間に身を委ねるわけがない。
だからトモエは、鈍い、自惚れた多くの求愛者達を確実に拒むだろう。

シズルに捨てられたトモエは、寂しくてミーヤを求めているに違いない。
それに、シズルに捨てられたことで色々と目が覚めたのかもしれない。
だから今トモエがミーヤを求めているとしたら、それは相当な想いだろう。

一年足らずの付き合いとはいえ、ミーヤはトモエの心理を把握していた。
しかし可哀想に思いつつも、ミーヤはその手紙を読むわけにはいかなかったのだ。
……本当に私に会いたいのなら、実家まで来れば良いのに……。
時折ミーヤは考えた。が、すぐに否定する。
会ったら何かが崩壊しそうで怖かった。
ヴィントブルームとルーテシア・レムスの距離は遠い。
気まずく別れて一年も経っているのだから来るわけがないだろう。

ミーヤはそんな風にどこか再会を期待している自分に嫌気が差した。
頭ではトモエの件を割り切ってはいても未練がましく考えてしまうのは、
優柔不断な性格のせいなのか、まだトモエを忘れられないからなのだろうか。
「私は彼に自分自身とトモエを重ねているだけで、
本当は彼自体を愛しているわけではないのではないか?
彼を愛そうとすることで、彼に意識を集中させることで、
トモエを忘れようとしているだけなのではないか?
そんなものは、本当の恋愛ではないのではないか?」と、
幾つかの恐ろしい、考えたくもない仮説が、ミーヤの脳裡に頻繁に浮かぶ。
その度に心は重く、気分が滅入る。だから、その仮説はすぐに否定する。
「この仮説はある点では間違ってはいないけれど、正しいわけではない」
ミーヤはそう思い込み、なるべく明るい未来に目を向けようとする。

さもなければ、今後の自分の幸福な人生が大きくぐらつくからであろう……。


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