「日食」
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上>
作者  J

2006-07-14


 

 




夕刻、シズルは職務の気分転換に学園長室で優雅にお茶にする。
梅雨は明け、暑さは本格的となり夏の日差しが照りつける。
ナツキは出張で学園を離れているので数日間は独りだ。
シズルは独りの時間を愛しているが、それ以上にナツキを愛してる。
そんな当然のことを思い巡らして吹き出しそうになったり、
そんな莫迦々々しいことを考えている自分自身を観察する事を楽しんでいた。
……ナツキと出会ってどれくらいになるだろう。
もうすぐ十年だ。

ナツキとの関係は恒常性に満ちている。
自分のナツキへの想いも、自分とナツキとの関係も、ナツキそのものも。
ナツキが覚束ない面持ちで窓辺から外を眺めていると
「あぁ、ナツキ、何か悩んではるんやろ……」なんて、
本気で心配したのも束の間、実際は何も考えていなかったりする場合も多い。
こういうところも学生時代から変わらない。
かくてシズルは無駄に振り回される喜びを噛み締める。

確かに出会った当初は少々苦難もあった。
しかし紆余曲折しつつも今の良い関係を築いている。
この関係だけは壊したくはないし、壊されたくはない。
何があっても死守すべきであると己に命じる。
と、こうまで強い意志を持たずとも、壊れはしなかった。
それは意志の力が強いというよりも互いが互いを想う力の強い事の証明であろう。
客観的に見ても主観的に見てもうまくいっているとしか言いようがない二人。
五柱たるオトメという使命さえ完璧に果たしていれば、
それ以外のことは他人に干渉される筋合いはないと考えていた。

シズルは冬生まれということもあり暑い気候は苦手であったけれども、
ナツキが夏生まれなこともあり、夏という季節そのものは嫌いではなかった。
むしろ夏場の夕刻から深夜にかけての時間帯が好きだった。
今日は普段よりも涼しかったので、シズルはソファから立ち上がり窓を開けた。
そして、いつもナツキが座っている椅子に腰をかけた。

そんな時、ドアをノックする音がした。
ナツキは出張中だから来客されても困るとミス・マリアに告げてあるのに……。
億劫ではあるが、ナツキがいない間は自分が学園長代理という事になるのだろう。
「はーい、今開けます」
シズルは自分の所在を示すように返事をすると、にわかに立ち上がりドアを開けた。

 

 


 

シズルはその来訪客の姿に驚愕した。
瓜実顔に半眼に開いた切れ長の目、その流れに沿う三日月の眉、
目尻に刻まれた皺、優艶な薄い唇。
それと不釣り合いな耳際の髪の毛のほつれが悲愁を孕ませる。
このつつましやかな女性はトモエ・マルグリットの母親である。
社交界で幾度か顔を合わせた事があった。当然会話はしているし面識はある。
何よりこの顔立ち、この立ち振る舞い、この雰囲気が、トモエの染色体の中に、
確実にその遺伝子を持っている、ということを如実に現している。
「今日は……シズル様にお願いがあって……」
トモエの母親は一つ一つ言葉を選びながら、哀切さを込めて語り出した。

トモエの母親は枯れた紅葉のような人だった。
若い頃はさぞ美しかったであろう。少女時代はトモエのような生意気さはなく、
控えめで思慮深い、真率な人柄であったに違いない。
大貴族の特権意識のようなものは見えない。
どちらかというと、トモエよりもトモエの母親の方がシズルの好みに即していた。

話によると、トモエはある時から激変してしまったようだ。
しかし、その理由について本人は一切語らないという。
これまでは子供の頃からオトメになりたいという夢を持っていたのに、
最近では物事全てに対するやる気を失い、生活は放恣に流れる一方で、
実家の部屋に閉じこもりっぱなしだという話だった。
こんなことは未曾有の事件だという。
トモエの母親の訪問にも驚いたが、この話の方がはるかに衝撃だった。
あのしっかり者で勝ち気なトモエが、まさかそんな事になっていたとは……。

シズルはあの件以来トモエをなおざりにしていた。
実のところ、トモエがワルキューレ部隊となり、アリカを攻撃し、敗北した後、
シズルはトモエには一切関知していなかった。
だからトモエがガルデローベを退学したのか、休学しているのか、
留年することになったのか、進級できたのか、まるで何も知らなかったし、
……正直なところ忘れていた。

そんな事を考えていた時、話ながらにトモエの母親はハンカチで目頭を押さえた。
哀しみの飛沫がシズルの心に染み通り、やがて悔恨の情にかられた。
そこまでトモエを追いつめてしまっていたこと、
それによりトモエの家族をも苦しめてしまったこと、
そんなことを考えもしなかった自分に……。
先程まで優雅にお茶を啜っていたが、今やシズルの心は暗澹たる空模様となった。

トモエの母親はシズルとトモエとの間に何かがあったと確信して学園を訪問した。
トモエがオトメを目指すきっかけとなったのが、
シズルの存在であることを認知していたからである。
けれどもそのことは特に何も聞かず、
是非一度トモエに会いに来て欲しいということをシズルに告げた。
それは真に迫っていたし、明日にでも行く必要があると切に思った。
それは学園の威信に関わる問題でもあるが、
何よりトモエの話とトモエの母親の涙に感応されたからである。

トモエの母が訪問して帰った後、シズルはトモエに関する資料を調べた。
トモエは正式には退学はしていなかったが、殆ど退学したような状態であった。
かといって現在何か仕事をしているわけでも、
何か別の訓練や勉強をしているわけでもないようだ。
そんなトモエを両親や女中などが注意したり咎めると、
気が狂れたように挙措を失ってしまうという話だった。
喚き散らし、小さい子供のように延々と泣きじゃくる。
そうなるともう手がつけられない、とトモエの母はシズルに目に涙を湛えて語った。
削げた頬と目尻に刻まれた皺が一層真実味を加え、
より一層シズルに責任感と罪悪感を感じさせた。
この問題を考究すれば、透徹して自分に責任があるという蓋然性は高い、
ということはすぐに分かる。そして、トモエを軽侮していた自分を恥じた。

 

 





昨日とはうって変わって烈日が眩しい日だった。蝉の声がかしましい。
シズルはマルグリット家を目指してヴィント市内を歩いていた。
強烈な日差しを遮る日傘の下で、シズルの顔立ちは陰影を深め、
普段よりエキゾチックに映った。シズルは昼よりも夜の方が断然美しい。
それは、一度でも夜を共に過ごしたことのある者ならすぐに理解できるだろう。
日傘はシズルを昼から夜の容貌にしてしまう危険なものであったが、
そんなことには本人は気付いていなかった。
途中花屋に寄って花束を購入した。
我ながら甘いと思ったが、手ぶらで訪問するのは非礼である。

マルグリット家は茫漠たる邸であり、敷地内の広さに初めて訪問する者は驚く。
シズルはパーティーに何度か呼ばれたことがあったが、
毎度、その壮麗に屹立した邸に溜息が出そうになる。
太陽の光が敷地内にある池に反射して、きらきらとした光彩を放っていた。
その池の奥に今まで見たことのないような、
モニュメントのようなものが見えたが、この位置からではよく見えない。
シズルは何故かそれが気になったので、立ち止まって注視した。
するとシズルの背後から足音がした。
――振り返るとトモエがいた。

暫く見ぬ間にトモエはこころもち憔悴した容貌になっていた。
身体は痩身してひと回り小柄に見えた。
運動をしなくなって筋肉が落ちたようで、以前よりも華奢な印象だ った。
骨が細く、華奢な骨格にうっすらと脂肪がのっていた。
外出しなくなったこともあり、真夏だというのに肌は随分白かった。
それは、劇薬を甘い砂糖で包んだ白い錠剤のような危険を孕んだ白さだった。
もしトモエがオトメを目指さずに、通常の大貴族の娘として過ごしていたら、
このような相貌だったのかもしれない。ならば本来オトメには向いていないだろう。
オトメになるにしては肉体が幾分ひ弱だった。そう考えると、
トモエはこれまでに随分と自分を鍛え、磨きあげたという事になる。
……それは涙ぐましい事実であった。

母親似の切れ長の目と三日月の眉と薄い唇、
そして風変わりな左右非相称の髪型は相変わらず健在だったが、
微笑を浮かべると以前より閑雅に感じられた。
トモエはその細い体躯に黒いワンピースを着ていた。
黒いワンピースのスカートの裾の端には支那風の華柄の刺繍が施されて、
その紅と紫の華の刺繍が地味に主張しているかのようだった。
トモエはレースのついた日傘を差して、みじろぎもしないでじっと立っていた。
……トモエは日傘を差すと美しくなる部類の人間に即している、
と、その時シズルは思った。
「お久しぶりです、シズル様」
トモエはおぼろげな口調で言った。
受け取り方によっては怒っているようにも聞こえたし、
冷淡にも感じられたし、些か高飛車にも聞こえたが、
これは馴れ馴れしさを排除した結果なのだろう。
つまり、トモエは以前よりもシズルに対して距離を置いている。
それが一見すると冷たく感じられたが、これが彼女にとっての常なのだろう。
実際トモエはシズル以外の人間に対してそのような態度をとっていた。
更にシズルは、呼称の変化にトモエの心理を感じた。
お姉様呼びをしないという事は、彼女はもうオトメを目指していない、
という事を表明しているのかもしれない。
それは同時に、自分に対する尊敬や憧れは忽然と消滅した事でもあるのだろう。
現在トモエは自分に幻滅し、嫌悪しているのだろうと悟った。
「こちらへ……お茶をご用意致します……」
トモエは事務的にシズルを邸内へと誘導した。
シズルはトモエを見つめたが、トモエはぷいとそっぽを向いて歩き出した。
その態度は、トモエのシズルへの感情の変化を証明した。
仮定が確信へと変わり、シズルは幾許かの寂しさと胸の痛みを感じた。
やがてシズルもトモエを追うように、少し遅れて歩みを進めた。

 

 





邸内は冷房が効いていて、真夏の火照った身体を急速に引き締めた。
来客用のソファーに腰をかけたシズルは、久しぶりに訪れた、
マルグリット家特有の重々しい厳粛な匂いに懐かしさを感じた。
アールヌーボー調のくねくねした室内装飾、螺旋階段、
花や蔓や蝶の柄のステンドグラス、赤い皮のソファー、
派手な額縁が囲む油彩画、集められた優秀な書生、貧しい芸術家の卵、
胸の大きな女中、黒猫のジャンヌ、地下室にある謎めいた部屋……。
その全てが悪趣味ぎりぎりで際どかったが、
マルグリット伯爵のわかりやすいディレッタンティズムは悪くないと思っていた。
善良な市民をはなから排除し、嘲っているかのような偏屈な貴族趣味を持った
マルグリット伯爵の悪趣味が、シズルは決して嫌いではなかった。

すぐに女中が紅茶と焼き菓子とシズルの持参した花を花瓶に入れて持ってきた。
それらをテーブルに置くと、重々しい室内がにわかに華やいだ。
「今日はわざわざ自宅に来てくださって、どうもありがとうございます」
トモエは切れ長の目を更に細め、ゆっくりとしゃべった。
膝にはトモエが可愛がっている黒猫のジャンヌが座っており、
トモエはジャンヌの頭を愛撫しながらシズルを見つめた。
「そのマドレーヌ、わたくしが作ったんですのよ。
シズル様のお口に合えばいいんですけれど……」
そんな時、砂時計の砂が下に全部落ちたので、
二人は琥珀色のきらきらとした紅茶を螺鈿細工のティーカップに注いだ。
シズルはティースプーンでいつもより一寸多めに瓶から白い砂糖をすくうと、
さらさらとティーカップに砂糖を落とした。砂糖は熱でじわじわと溶け始めた。
それをティースプーンでゆるやかに攪拌して紅茶を啜った。
「ほな頂きます」
マドレーヌを一口食べた。紅茶の渋みとカフェインと、
マドレーヌのぼそぼそした食感が融和して心地良い。
そして、以前とは異なる植物的でなよやかなトモエは、
シズルに甘い戦慄を感じさせた。とても美味しかったと正直な感想を述べると、
トモエの蒼白した頬がほんのりと赤みを差して色めいた。

近頃トモエはお菓子づくりに凝っているようだ。
庭を散歩したり、スケッチをしたり、夜は望遠鏡で星を眺めているとのことだが、
それはあくまで趣味や気晴らしや逸楽であって、
トモエが本当にしたいことではないように思えた。現実逃避である。
それくらいはシズルにも分かった。
まだ十五、六歳の若者の人生、今後はどうにでも改善する余地はある。
暫く放って置いても良いと思う。
シズルに憧れる者は多いが、学園に入学することすらままならぬ状況である。
入学してもオトメになるという夢を果たせなかった者も多い。
気にしていたら切りがない。
それでもトモエは、その短い人生の半分以上をオトメになる夢に捧げ、
シズルを追いかけて学園に来た。ナンバーツーの座を獲得し、
クラス委員という役割をも託されていた。
そして、何度か寝たこともあった……。

ともすると、トモエを放っておくというのは、ありうべからざることである。
だが、どう干渉すれば良いのかシズルは憂悶していた。
恐らく、まだオトメになる夢を完全に捨てきれたわけではない。
それはまだ完全にシズルを諦めたわけではないことでもある。
ならば、複雑にもつれ、荒廃したトモエを自分ならば救えると、
自分ならばトモエを懐柔できるとの矜持を持って、シズルは反問した。

シズルは姿態を整え、泰然たる態度でトモエに言った。
「トモエさん、まだ今ならやり直せます。
あんたは、実力も資質も根性もありますし……
学園長に言うて、手続きして……な?」
その瞬間、トモエの表情が一転した。
蒼白な顔、険がある目つき、真一文字に固く結んだ唇……。
細い肩がわなわなと震えていた。
それに照応するかのごとく、黒猫のジャンヌがいきり立った。
その時初めて、シズルは自分が空疎な言葉を吐いていた事に気付き、
後悔の念と焦慮にかられた。自分の不遜な態度がトモエを憤慨させ、
――また、瑕を負わせてしまったと……。
トモエはソファーから立ち上がると、怒ったような声で冷然と言った。
「あなたとお話することなど御座いません。どうかお帰り下さいましね」
トモエの膝から滑り落ちたジャンヌがくるりと床に着地すると、
トモエの細い足首に身を擦り寄せてにゃあとにゃあと鳴き声を上げていた。
この時シズルは二対一で自分は負けたように感じた。
「わかりました。ほな失礼します。……せやけど、また来ます」
シズルは泰然たる態度でトモエにそう告げた。
すると、そこにトモエの母がやってきたので、うやうやしく礼をした。
そして、用事があるので、もう学園に戻らなければいけないけれど、
また近いうちに挨拶も兼ねてマルグリット家を訪問する、とトモエの母に告げた。
それを聞くとトモエの母は幾分安堵したようで表情が緩んだ。
それを見たシズルも照応するかのように安堵した。

トモエはシズルの立ち去る後ろ姿を、
その姿が見えなくなっても恨めしそうに見ていた。

――トモエの胸奥は如何ばかりか?
シズルは邸を立ち去った。外はまだ蒸し暑かった。

 

 





シズルがマルグリット家を訪問した晩、トモエは眠られぬ夜を過ご した。
……そして、シズルへの復讐に専心した。
彼女を痛烈に当て擦ってやろう。手紙を書こうか?毒を盛ろうか?
とにかく、今日のように、ただ無関心を顕すだけでは不十分だ……。

午前零時。全身が熱い。熱帯夜だった。
トモエは出窓に腰掛けると、ネグリジェのボタンを外して、月影に肌を晒した。
白い胸元に月光が映え、細かい粒上の汗が燦然と煌めく。
トモエは両手を広げ、忍びやかに、横溢した蒼白い月の光を渾身に浴びせた。

今日お姉様はわたくしをどう思ったのかしら。
わたくしが一寸冷たいそぶりを見せたら、
お姉様ったら、あんなに哀しそうな瞳をしていらして……。
――可哀想な人……。
少し冷たすぎたかしら?でもいい気味だわ。
だって、学園長の名前なんて出すなんて……。
――あの名前を聞くだけでわたくし虫酸が走りますわ!
……今のトモエにとって、ナツキとアリカの名は禁句だった。

トモエは、自分自身を羽をもぎ取られた蝶だと思った。
――お姉様の羽もこの手で必ずもぎ取る!
わたくしの痛みはお姉様の痛み、お姉様の痛みはわたくしの痛み……。
そのことを、この恨みを、知らせてやる必要があると思った。
そうして初めて、どれ程わたくしを傷つけたかをお姉様は思い知るだろう……。
斯くしてトモエは、最小限の云為で最大級の打撃を加える十全な手段を考究した。

……とつおいつ思案したものの、名案は閃かなかった。
トモエは苛立ちを抑えるべく葉巻を燻らした。のろしが煙月のようだった。
そして、何か良い資料はないかと地下書庫へと向かうことにした。


マルグリット伯爵は僅かにしか本を読まなかったが、虚栄心で書庫を設置した。
それはトモエにとって間がいいことであった。
子供の頃はよく地下倉庫で長らく過ごした。
本を読むだけでなく、そこで将来の自分……美しく完成した自分自身を夢想した。
――本来トモエは夢みがちな夢想家だった。

暗澹とした地下書庫へと向かっていると、階段で厭な男と遭遇した。
男は現在マルグリット家に寄宿している二十二歳の書生である。
トモエがガルデローベに行かなくなってから、この男が家庭教師となった。
優秀な人材であったようだが、鼻持ちならない態度が陋劣な男だった。
皮肉っぽく囲まれた金縁眼鏡から覗く不気味な細い目、ポマードが塗られた頭髪、
肥えた白い下腹、伸びた爪、黄ばんだ不揃いな歯列の隙間から漏れる口臭……。
――トモエは彼の全てに生理的な嫌悪感を抱いた。
トモエはこの男を、どうにかマルグリット家から追放したいと切に思った。

やがて思いがけない僥倖が訪れた。この男のある秘密を握ったのだ。
彼が、一番若い女中に手を出したこと……。
トモエは即刻このことを父親に密告した。
「お父様、あいつは、次はわたくしに手を出そうと目論んでいるはずですわ」
と、涙ながらに付け加えて。我ながら名演技だったと矜持を持った。
この件はマルグリット伯爵の逆鱗に触れ、週末には出ていってもらうと言った。
そして男は、翌朝マルグリット家を出て行く運命となった。

「トモエ様、夜夜中に何をしておられるのですか?」
男はわざとらしく哀愁を漂わせ、大人ぶって諭すように言った。
「わたくしこれから勉強があるんです」
トモエは美しい微笑を浮かべた。
折り目正しい態度は男を満足させ、彼はトモエが自分に気があると自惚れた。
このような彼の不遜な態度は、トモエに吐き気さえ催した。

――莫迦な男……。
彼の姿情、すなわち醜さは、トモエの憫笑を招いた。

 

 





トモエは書架から以前に読んだことのある本を何冊か抜き取った。
トモエは本を読むとき、ペンで線を引いたり、書き込みをする習慣があった。
以前読んだ本を読み返すことで、その本を読んでいた時の気分を思 い出す。
たしか、その本を読んでいたとき、……シズルのことを考えていた。
――不意にシズルのきれいな空気のような瞳が浮かんだ。

先ほど醜い男と対面してぞっとした。シズルはやはり美しい。
シズルお姉様は誰よりも美しくて、賢くて、品があって、
素晴らしい優雅な方なのに、そのような高貴なお人が、
特別にわたくしに会いに来てくださったのに、追い返してしまって……。
「また来ます」なんて、お姉様はおっしゃっていたけれども、
もう二度と、わたくしに会いに来てくださらないかもしれない……。
――あぁ、どうしてこんなことになってしまったのでしょう?

トモエは、シズルの美しさ、賢さ、包容力……全てに憧れ、惹かれていたが、
そのようなシズルの魅力を同時に憎んでもいた。自分には備わっていないからだ。
欲しくても手に入らず、惹かれて止まないが、劣等感を刺激される。

閑寂な地下書庫で、トモエは急に泣きたくなった。
現在の自分の状況と行く末の凡庸な自分の姿を予感して悲嘆にくれた。

以前、ミーヤのことを「これという取り柄のない凡庸な人間」だと断定した。
今の自分とミーヤに何ら変わりがあるだろうか?
むしろ今の自分の方が、ミーヤより劣っているのかもしれない……。
トモエは個人的にも社会的にも遅れをとってしまったと自分自身を思った。

噂によると、ミーヤは近々許嫁と結婚するらしい……。
幸福な未来が待っているに違いない。トモエは初めてミーヤに嫉妬した。
「結婚なんて無能な女の逃げ口に過ぎない」と考えていたというのに……。
ミーヤだけではない。他の誰もが幸福で、成功していて、満たされている……。

トモエは自室に引き籠もるようになってから、過去の自分を回顧し、想起した。
その間は誰とも会いたくなかったし、他に何もしたくはなかった……。
誰かと会えば劣等感と恥辱を感じさせられるだけ……だからである。
しかし、その隠遁生活は、更にトモエを落ち込ませることとなった。
自分は他人とは異なる人間……しかも、他人よりも劣っているという事実……。
――実は自分こそ、何も取り柄がない、凡庸な人間だったのだ!
今まで気づきもしなかった。いや、本当は薄々と感づいていたのかもしれない。

……トモエは、人生で初めての大きな蹉跌をきたしていた。

そして結局、シズルへの復讐法など思い浮かばなかった。
それどころか、自分は堕落する一方である。惨めな人生の落伍者……。

睡眠不足で浮腫んだ瞼が、泣いたことにより、もっと醜く腫れた。
トモエは、自分が世界で一番不幸で、世界で一番醜い少女のように思えた。
澱んだ溝川のほとりで、独りぼっちでしくしく泣いてる哀れな醜女……。
こんなに醜くて汚い女の子のことなんて、きっと誰も救ってくれないだろう……
と思うと、トモエの気分はいっそう暗くなった。濡れた睫毛が悲愁を漂わせた。

――せめてきれいにしておかなくちゃ……。
トモエはにわかに立ち上がり、よろよろとした足取りで湯殿へと向かった。

トモエは石鹸をいつもより多く泡立てて、体の隅々まで清潔にした。
特に腋下と足は強く擦った。臭気がしては困ると半脅迫的に洗った。
シャワーの蛇口をひねって水圧を強くする。水の鞭が全身を強く打つ。
心地良かった。……しかし、やや強さが足りないと思った。

――私は独自だ……。
トモエはそう何度も自分に言い聞かせる。
風呂から上がると睡魔に襲われた。

 

 

 



――トモエは不確実な存在だ……。
シズルは思った。それゆえ、トモエとの関係は不確実性に満ちている。
ナツキとは対照をなす。性格も関係性も何もかも……。

トモエとの関係性は曖昧なのだ。これはあまり良いことでない様に思えた。
予測不能な関係というのは、常に危険を孕んでいるからだ。
何か得策はないかと、シズルは想念を巡らす。
眠気が訪れるのを待ったが、その晩は容易には眠れなかった。

――幽閉されていた頃のことを、ありありと思い出す……。
触れ合う睫毛、熱い吐息、複雑に絡み合う肢体、溢れ出る美酒……。
それはそれは、甘美な陶酔に浸った一時を過ごしたものだった。

シズルのたゆたう乳房の谷に、顔を埋もれていたトモエは、顔を上げた。
目が合うと、すっかり酩酊しているトモエは、微笑を浮かべ、甘く囁いた。
「シズルお姉様も、わたくしとこういうこと……したかったのでしょう?」
くすくすと、一糸も纏わぬ小悪魔の玲瓏たる声音が室内に響く。
トモエのしめやかな物言いは、蛇毒の霧のようにシズルの顔に吹きかかった。
シズルは胸の裡を見透されてしまったようで、どきりとした。

二人は夢幻的な未開の地へ到達すべく捷径を目指していた。
苦悶し、のたうち回り、やがてそれを恍惚が寛大に包み込む……。
……戯れの後、二人の体熱を帯びた純白のシーツに、
小さき獣の恥毛をまざまざと見たことを、シズルは追憶した。


艶事の後、シズルとトモエはよく会話をした。
たわい無い話が大半であったが、トモエの妄想も聞かされた。
それは、夢と現をたえず往き来しているトモエの深淵なる美の世界、
すなわち、愛、理想、夢、希望、平和に満ちた、至極美しい完璧な世界、
トモエは、そんな世界を夢想し、それを求めていた。
現実は、俗物に満ち溢れ、醜く歪んだ野卑なものだからと……。

――トモエは、まるで夢の情景を語っているかのようだった。
トモエの描く美の世界には醜い物は一切存在しない。存在できないのだ。
自然は破壊されておらず、大気は汚染されておらず、殺戮もなされない。
そして、決まってこう付け加えた。……自分は、特別な人間だと……。

シズルは、思春期の少年少女にありがちな妄想を黙って聞いていた。
誰もが思春期には想い描きそうな陳腐な妄想である。
誰もが思春期には自分を特別な人間だと思うだろう。
哀れな若者の特権意識と無力な夢想は、シズルの憫笑を招いた。
どんなに夢のような世界を想い描いてみたところで、実際は何も変わらない。
現実は現実のまま、何も変わず進行していく。
人は、運命に流されて生きていくことしかできない無力な生き物だ。
百年の時が経てば、地球上の殆どの人間は死骸となり、灰となり、散っていく。
今、どんなに強く何かを願ってはみても、百年後には忘れ去られていく……。

……不意に思った。
自分は、このような誇大妄想を抱いたことがあっただろうか?

トモエはこの話をするとき、決まって懇願するかのような瞳で訴えた。
熱を帯びた熱烈さと容赦無い怜悧を共存させた、美しい瞳で……。
……シズルはそんなトモエの瞳が、決して嫌いではなかった。


トモエとの関係を率直に言えば、情交が端緒となった関係性である。
最中はトモエを可愛いと思ったが、それは恋や愛などではない。
交合した相手には類縁のような情が移る……。
元々可愛い女の子は好きだし、これ迄の情交の相手は決して少なくはない。
交接の後、寂しさと切なさを感じるのは、
何もトモエに限ったことではないではないか。
かくてシズルは、自分のとった態度について自分自身に弁明した。
けれども、その断想は脆弱で、次の瞬間から崩壊し始める。
そして、ゆくてに待ちかまえている恐ろしい何かを直感し、慄然とした。
……トモエを疎隔していた本当の理由に薄々と気づき始めたからだ。


とりあえず今日のことはナツキに話そう、と闇の中で考えた。
トモエの母親は、学園長であるナツキに話をしようと思っていたに 違いない。
勿論、シズルにも用件はあったようだが……。
シズルは切迫した思いで、トモエへの対応を微細に考え、智略を巡らした。
今日、孤絶したトモエを見たことにより、シズルは深く悔悟していた。
そして、ある妙案が脳裡に一閃し、結論を出した。

……結局、その晩は一睡もできなかった。

 

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