「春先の落雷」 
作者  J

2006-03-19

 

 



ガルデローベでは本日から新学期となり、
期待に胸を膨らませた新入生たちで華やいでいた。
春の到来とはいえ、まだ気候は寒々としていた。

学園の高台に位置する、学園長室の窓辺にナツキ・クルーガーは立っていた。
彼女はそこから見える新入生達の集団をぼんやりと眺めていた。

「お茶を入れましたえ」

ソファに腰をかけていたシズル・ヴィオーラの声が室内に響いた。

「ああ、すまない」

ナツキは軽く礼をすると、ソファに近付き、シズルの隣に腰をかけた。

「何を見てたんどすか?」

シズルは微笑みながら、かすかにナツキに顔を近付けて尋ねた。

「新入生が入学したから、その集団を見ていた。それと空模様。
天気予報では夕方から雨が降るらしい。こんなに澄明な空だというのに」

ナツキは熱い紅茶を冷ましながら少しづつすすって、
その合間に一気にしゃべった。
そんな真剣な目をしたナツキが滑稽で、愛おしくて、シズルは笑みこぼれた。

ナツキは何故自分が笑われたのかわからなかったが、
敢えて理由は聞かなかった。
(いつものことだ……シズルはいつも私を見て突然笑い出すんだ!)

納得いかないと思いつつも、その笑いには悪意がないことくらいは
ナツキでも感じとれたし、むしろその笑いは優しさの類いを
含んだものだったので、悪い気はしていなかった。

「あらぁ、うち夕方から用事があるんよ」

シズルは幾分わざとらしく落胆してみせた。
まだ少しシズルの口の端が笑っていたのにナツキは気付かない。

「じゃあ、この傘を貸す」

ナツキはソファから立ち上がり、一本の濃紺の傘をシズルに手渡した。
その傘は近くで見るとやや紫がかった紺色――茄子紺色――であった。

「私はもう少ししたらここを出る。すぐに帰るし、傘は必要ないからな」

ナツキがややぶっきらぼうに言い放ったのは、シズルに見つめられて照れたからだ。

そんなナツキの素朴な親切に嬉しくも切なくなり、シズルのきれいな瞳は潤んだ。

「嬉しいわぁ。この傘をナツキだと思って大事にします」

ナツキのふとした優しさに迂闊にも動揺したシズルは、
冗談混じりで気分をそらす。

「バッ、バカッ!私はもう出るぞ」

「いけずやなぁ、うちもナツキについていきますさかい」

シズルはナツキの左腕に両腕を絡めて、ナツキの肩に頭を乗せる仕草をした。


結局シズルもナツキと共に学園長室を出ることになったが、
向かう先は異なっていた。ナツキが議事堂に、シズルは校舎の方へ、
各々の理由で向かっていった。

 

 



学園長室から校舎へ向かう途中、
シズルは先ほどのナツキとのやりとりを回想していた。

それは穏やかで甘美なものだった。

ナツキといる瞬間こそがシズルにとって至福の時であった。

春が来て、新学期となり、新入生が入学し、パールの生徒は卒業する。
出会いと別れが短い期間で目くるめく訪れる。学園とはそういうところだ。
だが、五柱となった今では、シズルはナツキと共に過ごす。卒業など皆無だ。

春には、暖かい春の日差しと清らかに咲く花々を背景にナツキがいる。
夏には、ぎらぎらと照り尽くすまばゆい太陽の下にナツキがいる。
秋には、枯れた落ち葉を踏んで歩く寂し気な音と共にナツキがいる。
冬には、幻のごとく降り積もった真っ白な雪の中にナツキがいる。

シズルは、四季折々にことごとく表情を変えるナツキを見ることが幸せだった。

何も望まない。
何も求めない。

ただ、ナツキと肩を並べて、
オトメという高貴な身分に就ける自分自身が誇りだった。

そんな事を考えながら、シズルは愛おし気にナツキから借りた傘を撫でた。

(ナツキは相変わらず可愛らしいどすな……)

小鳥のさえずりが一面に冴え渡る。
シズルの機嫌は良かった。


シズルはナツキの清潔なほどの真っ直ぐさや、心の美しさ、鈍さに、
幾分傷付いてはいたが、それを蔑むことは全くなかったし、
むしろそんな部分に惹かれていた。

自分の邪な部分がナツキを汚さないようにと、先輩らしく距離感を保った。

しかしその一方で、
そんなきれいなナツキを自分の手で穢してしまいたい衝動にも駆られた。
任務など放棄して、わがものにしてしまいたいと懇願した。

そうした邪な想いに耽る瞬間は少なくなく、日々瞬間的にほとばしる。
暗い情熱を内包し、体内に熱い戦慄が走る。
そして瞬く間に罪悪感に陥るのだった。


 

 



シズルが校舎に向かったのは、
ミス・マリアからの頼まれ事の為だった。

その内容とは、新入生の前で簡単な演説を行って欲しいとの頼みであった。

優れた知性と圧倒的な強さで、
数多くの人々の憧れの存在であるシズルが、
年若い少女、それもオトメを志す少女に演説を行うことは、
彼女らにとって、様々な意味を含め、有益であるとマリアは考えたからだ。

演説自体は面倒に感じつつも、シズルは少しばかりわくわくしていた。

(今年はどんな可愛らしい子がいるかしら……)

可愛い女の子を見ることが好きなシズルは、
別の理由で楽しみだったようである。


コーラル星組の教室に辿り着いたシズルは、そっと戸を開けると、
教卓に立って何か発言していたミス・マリアがシズルの方を向いた。
マリアはシズルに軽く会釈すると、新入生たちに向けて告げた。

「シズル・ヴィオーラ、いえ、シズルお姉様が到着しました」

希望に満ちた新入生達は、
きらきらと溢れんばかりの輝いた目でシズルを見る。
教室に生徒達の黄色い、歓喜の声が響く。
シズルは少し照れくさかった。


ざわざわと収拾がつかなくなりそうな状況に、
マリアが喝を入れようとするやいなや、一人の優雅な少女が立ち上がり、
生徒達をやんわりととがめるように笑顔で言い放った。

「皆さん、シズルお姉様との謁見だというのに、挨拶もないなんて失礼ですわ」

少女の頬はやや紅潮し、目はかすかに見開き、真っ直ぐにシズルの方を見ていた。
凛とした張り詰めた声が教室中に響くと、
生徒達はその少女の方に視線を集中させた。

そして少女はシズルにうやうやしく頭を下げた。

生徒達はその少女に触発され、にわかに立ち上がり、ぎこちなく礼をした。

この瞬間に、少女は生徒達から少なからず尊敬の眼差しを集めたのは決定的だった。
当然のごとく、後にその少女は星組のクラス委員に選ばれることになった。

その精悍な少女の名はトモエ・マルグリットといった。
彼女はシズルとは面識があったのだが、敢えて皆の前でその事は言わなかった。


 



シズルは久々に対面したトモエに幾分驚きを隠せなかった。

入学するとは知っていたが、
まさか今日、こんな形で出会うとは思ってもいなかった。

シズルはトモエが皆の前で、"さも自分と旧知の仲だ"
ということを主張しない事に安堵した。

マイスターオトメという立場上、
生徒には平等に接するべきであると考えている。
……いや、それだけではない。

とりわけ彼女の場合は"厄介"だからである。


シズルの方も皆の前でトモエとは初対面のふりをした。

特に隠す必要もないし、やましいこともないはずだが、
何となくそうしてしまった。
いずれ皆に知れ渡る事だとしても、
あの場では周囲に知られたくなかったからだ。

シズルの演説が終わると、激励の拍手の嵐だった。
生徒達の中には、恍惚とした表情をしてる者もいた。

シズルは、そんなに自分は凄い事を言ったものかと、
疑問に感じつつも悪い気はしなかった。


そんな中、一際まばゆい視線を送ってきたのがトモエだった。

その瞳からは、一種の悲愁も漂ってる風でもあり、
シズルは気まずくて視線を外した。

恐らく、他の人から見たらトモエだって他の生徒と同じように見えるだろう。

だが、シズルはトモエからは、おぞましい、
何かそれ以上の難解なものを感じていた。


シズルは人々から賞賛される立場であったが、
決して高飛車な態度に出ることはなかった。
当然、新入生達にも謙虚であった。
そんなところが憧れられるのだろうか。

拍手の嵐が止むと、
シズルは生徒達とマリアにうやうやしく礼をし、教室から出た。

 



空は黄昏となっていたものの、雨は降っていなかった。
降りそうな気配もない。
それなのに焦って傘を渡してくれたナツキの純情さを思い、
シズルは嬉しくなった。


ガルデローベではこの季節には花は美しく開花し、草木は剛健に生えている。
用事も済んだ事だし、天気も自分自身の機嫌も良かったので、
シズルは少しガルデローベの近辺の森を散策しようと思った。


だが、少しだけ寄り道をするはずが、思いのほか遠くまで来てしまった。
人気の少ない深閑とした森の中に辿り着いた時、
シズルはいよいよ引き返そうと考えた。


そんな時、遠くから人の息使いが聞こえた。

「シズルお姉様……、こんな、ところに、いたなんて、はぁっ……」

森の中を駆けてきたと思われるトモエ・マルグリットが、シズルの前にやってくる。

トモエは両腕を両膝に重心をかけ、苦しそうに大きく荒く呼吸をし、
息が整ったと同時に顔を上げ、頬を紅潮させ、上目遣いでシズルを見た。

夕焼けの紅い影、駆けて来て全身に血が巡ったから紅いのか、
それとも、久しぶりのシズルとの対面で紅いのか、いや、すべてであろう。

「お久しぶりです、シズルお姉様、わたくし、ずっと……」

トモエはそこまで一気に言うと、
そこで一旦会話を止め、いつもの調子で優雅に続けた。

「ガルデローベのコーラルの制服、実は自宅に届いてから何度も着てたんです」

トモエは、ちょっと恥ずかしそうにシズルに言った。


実のところ、その台詞は、
一度止めた後に言いたかった事ではなかったが、それはそれで事実であった。

つまり、トモエはずっとガルデローベに憧れていたのだ。

トモエはそう言うと、嬉しそうにくるっと周り、新品の制服をシズルに見せた。

「よう似合ってますなぁ」

シズルはそんな少女らしいトモエを見て、純粋に可愛らしいと思った。


 



シズルはトモエに捕まってしまい、暫く立ち話をする羽目になった。
トモエに捕まったのが人気の少ない深閑とした森であることに運の良さを感じた。

学園内だと人目につく。
とりわけナツキには見られたくなかった。

勘の鋭いトモエのことである、ナツキへの想いを悟られてしまう恐 れを感じた。


トモエの事は決して嫌いなわけではないが、
扱いに困る事がしばしばある。
自分に対して向けられる重苦しい感情が時に鬱陶しく思う事があった。

その感情が、単なる憧れではなく、もっと厄介な、恋心のようなものであると、
シズルは直感的に感じとった。だからこそ、慎重に扱うようにと心がけた。


トモエは、ヴィントブルームの大貴族の娘であることもあり、
あらゆること――知性、教養、作法等――において卓越していた。

ことさら、トモエの父、マルグリット公爵の躾は厳格なものであった。
そのせいか、幼いトモエの印象は、目に涙を湛えて懇願するかのようであった。


シズルは、何となくトモエに同情心めいたものを感じつつも、
好きにはなれなかった。彼女の人工的に塗り固められた優雅が、
わざとらしく映り、シズルを白けた気分にさせたからであろう。

そしてシズルは何よりもナツキの荒々しくも純朴な美しさを愛していた。
トモエはその対極である。


そもそも、時折シズルに対しておもねるようなトモエの猫なで声が不快である。
公然とシズルを愛していることを全身全霊で示すことが許せなかった。


シズルはナツキへの想いを封印し、
一切示さない事が自分なりの対処法だと考えた。

しかしそうは思っても、なかなかうまくはゆかず、苦しむ事も多かった。
そう、シズルは今も昔も、そして今後も苦しんで生きて行く。
ナツキと共に過ごす幸せと己の苦痛を天秤にかけて、そう誓った。

それなのにトモエは、シズルの身を切るような想いを知りもせずに、
自分に愛を訴えかけてくる。そんな図々しさと独善さに吐き気がした。

そしてシズルは、露骨に愛を示してくる他の人間に対しても冷然たる態度をとった。

 




「それでですねシズルお姉様、あの書生がですね、うふふ」

今日のトモエはおしゃべりだ。
トモエは日頃は物静かな少女だが、突然おしゃべりになる。
シズルと久々に会話ができてはしゃいでいるのだろう。

トモエとの会話自体は面白いし、シズルも楽しんでいるが、
時折苛つくこともあった。それでも機智に富んだ会話は他者を魅了する。


マルグリット家での教育もあり、トモエの知識や知性は卓越しており、
年の離れたシズルとも互角に渡り合えるほどの話術もあった。

だが、トモエはその知性をひけらかしはしなかった。
恐らく彼女は、そういうことは下品だと感じたのだろう。

シズルは、そういうトモエの賢さは共感できたし、誇らしく思った。


トモエには二面性があり、
毒のある部分は見えないように配慮して演出していた。

即座にシズルは見抜いたが、
大抵の大人たちはトモエを大人しい少女だと思っている。

トモエが影で葡萄酒を飲み、葉巻を吸い、難しい書物を読み、
卑猥な本を盗み見ていたことは、シズル以外の誰も知るよしもなかったし、
トモエのこういうあざとい部分は、好ましいと感じていた。


トモエの可愛らしい毒のある面を思えば、
鬱陶しさや憎らしさは、少しの間は忘れられて、
シズルは自分がその瞬間だけは、心の広い、
幸福な人間になれたようで安堵した。

 




呆然と考え事をしていたシズルは上の空のようであった。

「お姉様、わたくしの話聞いてますの?」

トモエの瞳は不安定に揺れ、寂し気にシズルに尋ねた。

不安定なトモエの瞳が暗示するかのごとく、空模様は急転し始めた。
シズルはトモエの質問に答えず、空を見上げた。

トモエはシズルの握っていた傘に目をやった。

「シズルお姉様には、そのようなお色は似合いませんわ。
もっと淡い、清らかなお色が似合うと思いますの。
それに作りも男物っぽいですし、もっと……」

ナツキから借りた傘を貶されたようで腹が立ったシズルは、
トモエの言葉を遮った。

「そういえば、夕方から雨が降るそうどす。そろそろ引き上げましょ」

シズルの口調は棒読みで怜悧であった。
その言葉には、明らかに敵意や軽蔑が含まれていた。

トモエはこういう事には敏感だったので、
シズルを憤らせた事に脅え、自己嫌悪した。

トモエの目に涙が滲んだ。
涙が目に波々とたまり、それが溢れ出るとすぐに、雨が降り始めた。


春の雨は春雨いうんどしたな……
と、どうでも良いことを考えて、傘を開けないシズル。

何をこんなに動揺しているのだろうか?
いつからトモエがこんなに難解な存在になったのか?


急な夕立ちとトモエの涙で錯乱気味なシズルは、
それを悟られないようにと傘を開こうとしたが、
すかさずその手をトモエに掴まれてしまった。

振り放そうとしたが、力強くて振り放せない。


一体トモエは、何がしたくて、また、何を求めているのか?


シズルは高速で頭を働かせようとした拍子に、地面にある小石に躓きよろめいた。
傘は地面に落ち、シズルの体をトモエは支え、
シズルが顔を上げると、トモエの顔が間近にあった。

目が合うと、その時間は永遠に近い程長く感じられた。


不均等に照応する感覚――逃げ出したい衝動と、ずっとそうしていたい情動と――
に襲われるシズル。頭の中は蒼白する。


何故、こんな少女に脅えなければならないのか?


気付くとトモエは目を閉じて、唇を突き出していた。

シズルの目には、
その唇の輪郭だけがくっきりと浮かび上がり、他は何も見えなかった。

この艶めかしく濡れた紅い輪郭は、明らかに己に欲情して出た類いの紅だった。

そこには、背景から匂い立つ森の薫りと、少女の甘い薫りが漂っていた。


シズルは、思考を停止させ、ゆっくりと自分の唇を彼女の唇に重ねた。

微かに唸り声のようなものが聴こえたのでシズルは目を開いてみると、
トモエは涙を流していた。

その涙は、哀しみによるものではなく、歓喜の涙であった。
トモエは目を薄らと開き、微笑を湛え、聴き取れない程の小声で呟いた。

「嬉しい……」

そこには、シズルの嫌悪する人工的な優雅さではなく、純朴さがあった。

その笑顔は、シズルが初めて見た、悪魔の中に存在する天使であった。

その口からは、甘い薫りが漂い、それはすこぶるシズルを酔わせた。


シズルは自らの舌をトモエの口腔に差し込んだ。
甘い蜜の味がした。
トモエは身震いし、体勢を整えると、シズルの首に両腕を巻き付ける。
固かったトモエの唇は、次第に柔らかくなり、二人は更に激しく舌を動かす。


その時、大きな雷が鳴った。
遠くで落雷したのだろうか。


シズルは、春先に壮麗に響く雷の音で、
何か自分の運命が狂い始めることを予感した。


それを理解できないほどシズルは莫迦ではない。


そして、今後の自分の運命を思うと、絶望したものだった。

 


<完>

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